親ガチャという言葉が少し前に世間を賑わせました。
生まれてくる環境は選べない、それぞれが違う環境で生まれてくるということのようですが、それはそうだろうなぁというのが最初の感想です。
全員が同じ家に生まれてくるわけがないですからね。
だから不公平だ、という意味だとしても、それはそうでしょうねという感想です。
最初から公平が保証されているわけではないので、取り立てて不公平な側面だけをあげつらったところで何も好転しません。本当に時間のムダに感じます。
若い子たちが軽い気持ちで使うような、そこまで大した意味のない言葉なのかもしれませんが、自分のことは棚に上げているところが少しイヤな印象であまり好きになれません。
半分冗談みたいな使い方をしている分には、そこまで目くじら立てるようなことではないのでしょう。ただ、「だから努力してもムダ」というような方向に話が続くと、それはマズイなと思います。
前回のブログでやる気というものについて書きましたが、なぜ努力する人としない人に分かれるのかについて調べていたところ、「努力遺伝子」というものの話があちこちに書かれているのが目につきました。
努力できるのも才能、努力できるかどうかは遺伝で決まっている、というような話がもっともらしく書かれていますが、本当でしょうか。
多くの場合引用されているのが、「双子に楽器をやらせる」という話です。
環境に差がある別々の家庭で育つことになった(おそらく)一卵性の双子にクラシック楽器を練習させたところ、その習熟度に大きな差は見られなかった。よって、努力できるかどうかは遺伝で決まっているということが判明した…ということですが、「なんで?」としか思えません。
この実験でわかることがあるとしたら、「人は環境によらず努力できる」ということだったりしそうなんですが。
二組の双子、A兄弟とB兄弟を例にした場合、A兄とA弟の間、B兄とB弟の間にはそれぞれ有意な技術の差が見られず、A兄弟とB兄弟の間には有意な差が見られたということだとしても、努力以外の要因があまりにも多すぎて、努力遺伝子などというものの存在を証明することにはなりません。
ロシア帝国出身の作曲家セルゲイ・ラフマニノフは、ピアノの演奏家としてもかなりの達人であったことが知られています。
右手の人差し指から順にドミソドと小指までで1オクターブ押さえた状態で、それだけでも真似できないのに、更にその下を親指が通って高いミを押さえることができたそうです。
真似できる人はほとんどいないと思いますが、このようなことができる秘密の一つは彼の手の大きさにあります。というか、2メートルを超す身長にあると言ってもいいでしょう。
こういった要素も楽器の演奏技術にはとても重要なんですが、それらを無視して努力したかしていないかだけにフォーカスしても、意味がありません。
更に言えば、音楽のような趣味性が高いものについて、努力がどうしたといったところでまったく意味がないような気がします。好きな人は放っておいても時間を忘れて練習し続けますからね。
遺伝子がどうこうと言っていますが科学的な証拠もなく、「楽器演奏の技術には努力の量がそのまま反映される」という、明らかに間違った認識を前提にしている時点で、統計としても破綻しているような代物でした。
努力遺伝子について、ある評論家の方がお話している動画をYoutubeで視聴したところ、上記の「楽器をやらせる話」をしたうえで、自身が子ども時代に苦手だった体育の授業について、「お前もやればできるはずだって言われても、練習が足りないとかじゃない」「体育の時間をいくら増やしても、つまり鉄棒をいくら練習してもですね、全員がアスリートになれるわけじゃない」などと語っていました。努力してもムダ、というわけです。
ここに重要なヒントがあるなと感じたのが、「全員がアスリートになれるわけじゃない」というところです。小学校の体育の時間です。鉄棒といったって、どうせ逆上がりとかのレベルですよ。アスリートがどうとかいうレベルの話ではありません。
それを「アスリートになれるわけじゃない」からムダ…って、何か根本的な認識の違いを感じます。
この評論家の方にとっては、世界でトップを競えること以外は全部ムダなのかもしれません。とても有名な方なので立派な実績があるのだと思いますが、おそらく、自身に対する要求が幼少のころから高かったのでしょう。
こういう考え方は天才のみに許されるもので、凡人が真似するとエライことなります。
天才でもないのに目標や自己評価が高すぎると、そのせいで逆に意欲を失ったり、できることもできなくなったりするんです。
以前教室に来た中学生で、いくら言っても途中式を書かずに間違え続ける子がいました。途中式を書けば誰でも簡単にできるレベルの問題のはずが、本人は「ソロバンをやっていた」という理由で書くことを拒否しました。
途中式を書くような凡人ではない、自分は天才だ、という意識の表れだったのかもしれません。その意識さえなくせば、きっとできるようになっただろうにと今でも残念に思います。数ヶ月間の在籍で、何とか平均点には到達させることができましたが、最後までそのあたりの方針が合わず退塾となってしまいました。
天才として生きようとするのではなく、凡人としての自分を受け入れれば、きっと成長できたはずなんです。それができないせいで、凡人と呼べるかどうかすらも微妙なレベルから脱することができませんでした。
このレベルで地道な努力を放棄するのは、自殺行為といえます。
翼がないのに空を飛ぼうとすればどうなってしまうか、考えなくても分かることです。
必要以上の自己評価の高さは、いずれ必ず自分の足を引っ張ります。
言葉の響きから勘違いしている方が多いようですが、自己肯定感というのは、実力もないのに「自分はすごい」と思い込むことではなく、「自分はダメだけどそれを受け入れる」と思える力のことです。
ダメだけど受け入れるというのは開き直るということではなく、努力することで改善して成長できるという自信を持つということです。
ダメだから努力するし、ダメだから成長できるんです。誰にでもそんな経験の一つや二つはあるはずです。
何もできないのに「自分は天才」と考えてしまうのがいちばん厄介です。できないことを他人のせいにして逃げるだけで、何も成長しないまま時間だけが過ぎてしまいます。
いつまでも甘やかしていたら、気づいたときには手遅れなんてことになってしまうかもしれません。
謙虚な気持ちで、自分を成長させようと真剣に考える人間の覚悟の前には、「遺伝子」も「やる気」もどうでもいいような、取るに足らぬことです。
自分の現状を謙虚に受け入れ、少しでも前に進もうとすることが、何より大切なんです。
逆上がりぐらいなら努力でどうにかなることがほとんどです。アスリートがどうとかどうでもいいです。
同様に、ノーベル賞は取れなくてもいいので、小学校や中学校で習うことぐらい、真剣に取り組めば必ずできるようになります。
鳥の真似をして飛ぼうとしても人間には無理ですが、飛べなければ歩けばいいだけのこと。
自分にできることをしっかり実行するかどうか。
大事なのは、ただそれだけのことです。