今から15年ほど前に、とあるレースがスタートしました。
いわゆる時間制の耐久レースで、定められた期間内の総走行距離を競うというルールです。
そのレースのゴールのときが、あと数ヶ月後に迫っています。
A選手はレースが始まった当初から参加していて、常に努力を怠りませんでした。
当然ながら先頭集団を構成する一員として、レースを引っ張っています。
B選手は、レース期間が残り1年弱となったところで慌てて参戦した選手の一人です。
周りのみんなの様子を見て、参加しないと何か大変なことになると感じたようです。
B選手はA選手に勝つことができるでしょうか?
結論から言えば、できないとは言い切れません。
我々普通の人間には縁のない世界の話ですが、よほどの天才ならば勝てるのでしょう。
もちろん、普通は勝てません。追い越すこともできなければ追いつくこともできません。
それどころか、残念ながら、差を縮めることすらかなり難しいと思います。
A選手には二つの強みがあるからです。
まず、A選手には15年間走ってきた走行距離があります。
この距離をB選手が走る間、待っている義務はA選手にはありません。
同じスピードで走っている限り、追いつくことはできません。
次に、A選手には15年間の経験があります。
この間鍛え続けたエンジンに、寝る間も惜しんで研究を重ねた技術があります。
初心者マークをつけた、錆だらけの車で追い越すことなどできなくて当然です。
先ほど「同じスピードで走っている限り」という表現を使いましたが、実際には同じスピードで走ることなどありえません。どこの世界に素人と同じ実力のベテランがいるでしょうか。
同じ1時間でも、A選手はB選手の何倍もの距離を走ります。
この構図が変わらない以上、二人の差は広がる一方なんです。
あなたがB選手の立場だったらどうしますか?
「もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう」
アメリカ合衆国の16代大統領リンカーンの言葉です。
最初の4時間は1本の木も切り倒さない勇気を持つことが、最大限の結果を出すためにまず必要なんです。
B選手が最初にすべきことも同じで、まずはエンジンの手入れをして、走行の基礎を身につけなければ、レースどころの話ではありません。最初の数ヶ月は、今までの錆を落とすために使う時間です。その間もA選手を含めたほかの選手は待ってくれませんので、差は広がり続けます。
でも、参加すると決めた以上、それしかないんです。
皆さん気づいていると思いますが、高校入試の話をしています。
今まで勉強らしい勉強をしてこなかったのならば、ほんの数ヶ月で結果が出ないのは当然のことです。
しばらくは我慢が必要です。すぐに投げ出すぐらいなら、最初から参加するべきではないのかもしれません。
時間がないと思う気持ちは分かりますが、焦ったところで時間が増えるわけでもありません。
それに、今までもみんなと同じ時間が与えられていたように、これからもみんなと同じ時間が与えられています。良くも悪くも一人だけ特別などということはありません。
ちなみに、もし私がB選手の立場だったら、このレースはあきらめてしまうかもしれません。
そんな人間が言うのもなんですが、そんな人間だからこそ、あきらめない人、今からでもがんばれる人がいたら全力でサポートしようと思っています。
まずは覚悟を決めることです。
たとえ誰にも勝てなくても、少しでも前に進むためにがんばりませんか。
昼過ぎにテレビを見たらメドベージェワ選手が滑っていたので、もしやと思って確認したらオリンピックでした。
気づいたら始まってたんですね、オリンピック。
このメドベージェワ選手、今回は国の代表ではなく個人として出場しているとのことで、国名ではなくオリンピック・アスリート・フロム・ロシア、略してOARという枠に入っているそうです。ロシア自体は不参加というか、参加する権利を与えられなかったんですね。
ロシアと言えば、スポーツ選手以外で日本人にもおなじみのロシア人として、プーチン大統領と並んで名前があがりそうなのが、現首相のメドベージェフ氏ではないでしょうか。
このメドベージェフ氏とメドベージェワ選手、よく似た苗字だなと気になっていました。
そこで、ロシアに留学経験もありロシア語を学んでいる現役の大学生に、何か関係があるのか聞いてみたところ、「知らない」との答え。
これではお話にならないので調べました。
よく似た苗字なのではなく、同じ苗字なのだそうです。
ロシアでは、同じ家の人でも男性と女性で変化する苗字が多いのだとか。
男性の「~ノフ」や「~ジェフ」は女性では「~ノワ」「~ジェワ」と変化します。メドベージェワ選手、ラジオノワ選手がこれです。
男性の「~スキー」は女性では「~スカヤ」になるそうです。同じくフィギュアスケートのスターだったリプニツカヤ選手の苗字がこのパターンですね。
ちなみに、日本での一般的な表記に合わせて「メドベージェワ」と書きましたが、ロシア語には実際は「ワ」という音はありません。vの音(キリル文字ではв)で終わる苗字がvaに変化していますので、「メドベージェヴァ」のほうがより原語に近いようです。
非常に基本的なことのようですが、なぜロシア語を勉強している学生がこのことを知らないのか疑問だったので、再び先ほどの学生に確認したところ、「ロシア人を苗字で呼ぶことってないんだよね。苗字なんて聞いたことすらない人がほとんどだし」だそうです。こういうのも、実体験を伴った生きた知識って感じがしますね。
と、ここまで本当にどうでもいいことを書いてきました。
なぜこんなことを書いたかというと、とても気になっていることがあるからです。
以前在籍していたある生徒が「学校で習ってないから分からない」と言うことが何度かありました。
私は、この考え方はとても良くないと思っています。
塾で説明したことなのに、「学校で習ってない」という理由で分からないなんておかしいです。
学校で習ったことでできないことがあるのも普通ですし、学校で習ってなくてもできることだって普通あるはずです。「学校で習ってない」と「できない」はそれほど関係ないように思います。
お世話になっているある塾の先生から「それはただの常套句だから気にしちゃダメ」と言われたことがあります。
確かに、そこまで深い意味はなく、なんとなく言っているだけのような気もしますので、毎回毎回真っ正面から真に受けて反発するのもおかしいのかもしれません。でも何だかすごく気になります。
小さなころの私にとって、「学校で習わない知識」というのは、とてもワクワクするような大変な宝物でした。
小学校の低学年のころに、NHKから出版されたクイズの本を読んでいて、「ガラスは粘度の高い液体で、固体ではない」ということを知ったときには、世界がガラッと変わったような衝撃を受けました(現在では「液体みたいな固体」ぐらいの考え方になったようです)。そういうことはいつまでたっても忘れないものです。
習ったことしかできない人間なんて目指さないでください。
「学校で習う」というどうしようもなくチンケな器に、小さな知識を一粒ずつ入れて、表面が平らになって一杯になったらおしまい。みたいなことを望んでいたら、せっかくの若い時間が無駄になります。それぞれの知識は点のままで、つながり合って線になることもありません。
どこで習うとか習わないとか、本当にどうでもいいです。何でもかんでも興味を持てばいいんです。好奇心の赴くままに、どこへでも行けばいいんです。保護者のみなさんは、可能な限り口も手も出さずにそれを見守ってあげてください。すり切り一杯のみみっちくてつまらない生き方をやめるだけで、可能性が大きく広がります。
誤解のないように書き添えますが、「学校で習うこと」だってもちろん大事です。
教える側に問題がないわけではないですが、学ぶ側の姿勢を変えるだけでも、教育の効果はまったく変わります。それが、同じ授業を受けている生徒でも理解度がまったく違う理由の一つです。
チャンスはほとんどの人に平等に訪れています。まずは学ぶ姿勢を考え直しましょう。
学校の授業を活かすために、ときには学校という枠をはずす勇気も必要ですよ。
冒頭に書いたどうでもいい話の件です。
ロシア人の苗字なんて、一生関係ない人が多いでしょう。私だってどちらかと言えば関係ないです。
私が書いたくだらない文章を読んで、「ほー、勉強になったなぁ」とまで思う必要はありません。「へぇ」ぐらいでいいです。
ただ、「学校で習わない余計なことを知って損した」なんて思っているようでは、勉強なんかできるようになりません。
どうでもいいような知識がときどき意外な方向につながります。
どんな知識がどのようにつながるか、それは誰にも分かりません。ですが、それはいつか必ず起こることで、体験してみれば面白さが分かるはずです。
自分を小さな箱の中に閉じ込めても、得なことなんて一つもありません。
一回しかない自分の人生です。殻をやぶって飛び出しましょう。
そう、あのマトリョーシカのように。(イマイチなオチで着地に失敗)
ご指導してくださる先輩方、友人や家族、そして何より通ってくれる子どもたちとその保護者の皆様のおかげで、無事に3年目を迎えることができそうです。月並みな言い方ですが、あっという間の2年間でした。
私が塾を開校した大きな理由の一つに、受験産業が大嫌いだからというのがあります。
受験産業、と一括りにしてしまうと例外もあるとは思いますが、基本的に本当に大嫌いです。
だったら塾なんてやらないほうが…と思う方もいるかもしれませんが、塾というのは本来は教育のための機関で、受験産業と教育は似ているようでけっこう違うものです。
「勉強するのは受験のため」という誤った考えを正して、より良く生きるための勉強を楽しめる場所が、世の中には必要だと以前から思っていました。それさえできれば成績なんて上がって当然なんです。楽しいだけでは済まないこともたくさんありますけどね。
だから、子どもたちが受験産業の犠牲になることを少しでも防いで、ありもしない恐怖に怯えないで済むように、本当の教育をする場所を自分で作ることにしました。
(※今回のお話でいう受験とは高校の一般入試のことで、試される能力は勉強に関する力です。)
受験産業というのは、コンプレックス産業に近いものだと思っています。
何かが足りない、何かが劣っていると感じている人たちが、ろくでもない連中にカモにされて、弱みにつけ込まれて、不安を煽られて、貴重なお金と時間を無駄にするところがとてもよく似ています。
受験受験と大騒ぎする連中に乗せられて、勉強というものの本来の目的を見失い、自分を高めるチャンスを棒に振るなんてもったいないですよね。
そもそも受験というのは試験を受けることで、性能とか能力とかを測定するのが試験です。
検査のためだけに製品を作るということは、一部の試作品を除いてはあり得ません。同様に、試験のためだけに能力を磨くということが、普通はあり得ないことだというのは分かるはずです。人間には試作品など存在しません。
義務教育期間中に勉強しないというのは、よほど特殊な事情がある場合だけでしょう。「やっていて当然」の勉強の成果を測定してもらうだけのことですから、「受験のためだけに勉強する」というのが大きな間違いだということは、誰にでも分かります。
ところが、なぜかその間違いは絶大な人気があり、かなりの割合の人がそちらの間違った考えのもとで生きています。
そしてその間違いに固執した結果、かけがえのない時間とお金を捧げることと引き換えに、本来必要なことを学ぶ機会を失っています。きちんと勉強する道を選んでいれば何の問題もなかったはずなのに、悲しい話です。
よその子たちも「受験勉強」をやっているから…と、安易な考えで同じことをするのは危険です。能力も成績も確実に下がります。
最後の仕上げ「だけ」真似しても、自分を高めることはできません。むしろ、そこに至るプロセスを無視するということは、ほかの誰かの努力を侮辱することでもあり、そのような行動は自分自身の価値を貶めることにもなりかねません。
たとえば、表面上の形だけ誰か(一流のスポーツ選手など)の真似をして、何かできるような気になっている人がいるとします。
小さな子どもなら微笑ましいかもしれませんが、中学生にもなって本気でそんなことをしていたら、滑稽を通り越して悲しくなりますよね。それと同じことで、勉強も上っ面だけ真似してもみっともないだけですし、その間きちんと努力している人たちとの差は広がる一方です。
そんなことをしてはいけません。
そして、そんなことをやらせようとする連中に近づいてはいけません。
そんなことのために、本来やるべきことからどんどん遠ざかって行くなんて、どこをとっても一分の隙もなく間違っています。
本気で受験勉強の真似をするなら、そこにたどり着くまでのすべてを完璧に真似するべきです。
受験産業から子どもたちを救うために塾を作りました。
一つ計算違いだったのは、同じような思いで作られた塾が、世の中にはたくさんあったということです。自分がしゃしゃり出てくるまでもなかったかもしれません。
ですが、ほかの塾の方たちにもその人なりのやり方があるように、私には私のやり方があります。相手が格上であろうが何だろうが、負けるつもりは微塵もありません。
生徒を利用してやろうと待ち構えている塾が、世の中にはたくさんあります。
一方で、生徒に利用してもらおうと待ち構えている塾も、世の中にはたくさんあります。
どちらを選ぶか、迷う必要はないはずです。
あなたは(もしくはあなたのお子さんは)、受験産業の生贄になるために生まれてきたわけではありません。
どうか、本物の勉強をする機会を、自分から捨てるようなことはしないでください。